昭和8年の陸軍特別大演習と鳥瞰図
福井県庁内・大演習統監室(初三郎の鳥瞰図が掲げられている)
福井県の鳥瞰図作成に大きな影響を与えたももう一つ出来事・陸軍特別大演習
昭和8年の第31回大演習は福井県が舞台となり、県では慣例に従い吉田初三郎に福井県鳥瞰図作成を依頼し、それは大本営(県庁)の統監室に掛けられたこと。
期間中の天皇の巡幸は、福井市内など一部の地域に限られたが、侍従が使者として各地域に派遣されることもあり、これに合わせて県内の市町村(福井・武生・小浜)も初三郎に市街地の鳥観図作成を依頼したこと。
これらは書籍本文でも触れたが、福井市の鳥瞰図の場合は、もう少し事情が複雑で、若干補足しておきたい。
演習は、越前平野を舞台に、北軍と南軍に分かれて3日間実施され、天皇の福井滞在は8日間に及び、演習参加の2万の軍人に加え、天皇をはじめ皇族や首相・閣僚、外国武官や旧藩主、取材記者らが多数来県し、見物客は十数万人に達し、永平寺大遠忌以来のイベントとなった。
間に合わなかった新庁舎と公会堂
これに合わせて福井市内のインフラ整備は大きく進展する。
実は福井市では昭和4年に都市計画が定められたが、それ以降も具体的な進捗はなく、陸軍大演習を好機にその道路整備など一部が実施されるとともに、近代的建物建設による市街地の「顔」が整備されたのである。
昭和5年の幸橋架替えを皮切りに市内を通る国道12号(旧北陸道)の拡張整備、九十九橋架替え、市内の主要道路の整備、市庁舎、公会堂の新築着工、既存公共施設の整備などが急ピッチで進められた。
足羽山公園も再整備され、自動車でのアクセスも可能となった。
放送局の開局もそうであった。当時はラジオがようやく普及期に入りつつある時期で、福井放送局(JOFG)の開局で弾みがつき、大演習当日は、特別番組が組まれ、名古屋や金沢の放送局の応援をうけて、演習の各局面が全国に実況中継されたのである。
前年の昭和7年には福井に人絹取引所が開設されており、織物を中心に県内の産業界も活況を呈し、織物会館の移転新築など民間でも設備投資が続き、市内は「大演習バブル」ともいうべき活況を呈し、福井市街地は面目を一新したのである。
市当局にとって、「近代福井」を全国にアピールする絶好の機会を得たのであり、これが都市鳥瞰図作成の動機になっていたことは間違いないだろう。
誤算もあった。
目玉ともいうべき、市庁舎の新築移転と公会堂の建設が大演習に間に合わなかったのである。福井市鳥瞰図には昭和8年版と昭和10年版の改訂新版の2種類が在ることに本文で触れたが、昭和8年版では新庁舎を書き込めず、完成予想図を描き、そこに「市公会堂」の文字を入れて体裁を整えるしかなかった。もちろん、公会堂もこの時点では未着手であった。実際に庁舎と公会堂が完成するのは昭和10年5月である。
近代的な市庁舎を描きこめなかったが故に、2年後にあらためて新版を発行したのである。
大演習後の昭和10年以降も福井警察署の移転新築、人絹会館の建設、福井銀行本店の新築、京都電灯福井支社の新築、地上7階建ての福屋百貨店の新築着工など福井市内の風景は「人絹黄金時代」にふさわしく変貌をとげていく。
また昭和8年当時はまだ濠が残っていた駅前通り北側も順次埋め立てられ、福井の顔としての駅前が完成していくのである。